1 : ◆u2ReYOnfZaUs - 2018/08/01 00:44:42.54 Ai+XpKnp0 1/45・地の分
・アイドルの家族がちょっとでる
元スレ
川島瑞樹「ミュージック・アワー」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1533051882/
冬風がコートをたなびかせる。
28回目の冬、と川島瑞樹は思った。
アナウンサーになってからは、6回目の冬だ。
仕事には十二分に慣れた。
他者の幸福をさえずり、他者の悲劇を詠い上げる仕事には。
女子アナウンサーは瑞樹に合っていた。
華やかな面立ちと、聞く者の耳に沁みわたる、澄んだ声。
彼女は瞬く間にトップアナウンサーの座に登りつめた。
だが、仕事のスケールと瑞樹の心は釣り合っていなかった。
彼女は仕事に対する情熱に満ち溢れている。
一方仕事の方は、彼女がしてきた努力ほどには、彼女に報いない。
たしかに稼いだ。老後はそれなりに過ごせるだろう。たが、老後はまだ先。
仕事は続く、いや、瑞樹としては続けたいのだか、周囲がそれを許さない。
上司も同僚も部下も、友人も家族も、「そろそろ良いひと見つかった?」と、そればかり言う。
“女の”幸せを掴みに行け、と。
私の幸せは、仕事を続けることなのに。
周囲はアナウンサーとしての私を消し去ろうとする。
瑞樹としても結婚生活に憧れないわけではないが、家庭をつくるほどには、まだ自己犠牲精神が豊かではない。
もっと華やかな世界で、バリバリ働きたい。上を目指したい。
瑞樹はそう願っている。
今の仕事ではもう上がない。
忙しいだけ忙しく、成果がない。
夏に季節外れのコートを買って、それを着るのを楽しみに冬まで生きて、冬には水着を買っている。
道を歩くひとたちは瑞樹を見ると、パッと顔を輝かせた。
川島瑞樹だ。テレビで見るより綺麗だ。
いいなあ。あたしもあんな風になりたいなあ。
だが彼ら、彼女らも、心中でこう思う。
どんなひとと結婚するんだろう。
悪意はない。想像力に乏しいだけだ。
自分達の幸福観を、瑞樹の幸福に結びつけて、それで満足している。
瑞樹は顔を上げて、ファッションビルの大型モニターに映るアイドルを見た。
片桐早苗。
瑞樹と同い年だが、顔立ちは童顔で若々しく、いや、幼げにすら見える。
その顔立ちに反して、身体は背徳的なほど官能的。
まだしばらくは、第一線で活躍するだろう。
だが瑞樹は、無邪気に憧れることはできない。
芸能界の厳しさ、醜さは嫌というほど知っている。その中でも、アイドルが最も苛烈な仕事であることも。
ひとは飽きっぽい生き物だ。
どんなに悲しいこと、どんなに嬉しいことに対しても。
他人のことならば尚更だ。
瑞樹はまだ、今の立場を捨てるのが惜しい。
不満があるとはいえ、それなりに苦労して辿り着いた場所だ。
それに、周囲の負担になりたくない。
“もう28だけど、今からアイドル目指します!”
そんなことをすんなり周りに打ち明けられるほど、今の瑞樹の人生は軽くはない。
瑞樹はしばらく、モニターの奥の煌びやかな世界を見つめた。
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「ただいま」
家に戻る。当然、返事はない。
市内の一等地に構えられた高級マンション。
クローゼットと入浴、睡眠のためだけにしては、あまりに広すぎる部屋。
瑞樹は、アナウンサーになりたての頃を思い返した。
とにかくお金に困っていた。
美しくなくては、テレビに映る資格がないと思っていた。
美しくいるためには、金がかかった。
安い古アパートの一室で徹底的に自分を磨いた。
苦しかったが充実していた。
自分が次第によいものになっていくという実感があった。
今も、稼いだお金の大半は美容とファッションに費やされている。
化粧品、エステ、アンチエイジング、スポーツジム。
誰もが羨む高級ブランドの服、下着、バッグ、靴、アクセサリィ。
だが、それらは瑞樹の内面の充実になんら寄与していない。
女子アナとしてはもう先がない。現状を維持するか、寿退社の二択になっている。
もうすぐ30代。
あと2年を過ごすだけだが、20代ほど愉快に過ごせないことは目に見えている。
10代の大半は思い通りにならない荒野だった。
20代からは、なんでも自分でやらねばならない戦場だ。
瑞樹はその戦場を生き抜いてきた。少なくとも8年は。
だがこれからはどうだろう。
新しく入ってくる若々しい女子アナと、いつも比較される。
奪われる仕事もあるだろう。
さらに歳をとれば、「まだアナウンサーやってるんだ」、と笑われるかもしれない。
その時がやってくるまで、大人しくしているしかないのだろうか。
この空っぽな2LDKのマンションの一室で。
嫌、いやよ。
呟いただろうか、心の中で思っただろうか。
それを確かめてくれるひともない。
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瑞樹が司会をつとめるバラエティ番組に、片桐早苗がやってきた。
毎日が充実していて、たのしくてしょうがない、という顔をしている。
瑞樹は笑顔を浮かべながらも、内心は劣等感で焦げ付きそうになっていた。
「片桐さんは、アイドルになる前はなにをされていたんですか?」
「警官であります!」
早苗がビシッと敬礼を決めた。その仕草すらハツラツとしていて、眩しい。
「日夜凶悪犯と鎬を削って……」
「早苗さん交通課でしょ〜」
別の出演者が早苗に茶々を入れる。
早苗がそれに照れたように、えへへと髪を指でかきあげる。
無邪気さを30手前まで持ち続けている早苗は、外見のことを除いても、みずみずしかった。
瑞樹はそのみずみずしさに嫉妬を一瞬忘れて、見惚れた。
「アイドルになったのはいつ頃ですか?」
実は、すでに瑞樹は答えを知っている。出演者の情報を仕込まないで番組に臨む司会者はいない。
早苗がアイドルになったのはごく最近のことだ。
まだ1年も経っていない。
「7年前、28歳のときです!」
早苗がおどけたように言うと、会場が湧いた。
自分の年齢がアイドルを始めるには遅すぎることを自虐的に表現したのだ。
28、という数字が瑞樹の耳に残った。
それを把握しているかのように、早苗が瑞樹に言った。
「川島さんもアイドルになってみれば?」
冗談だろうか。本気だろうか。
瑞樹はすぐに返答ができなかった。
彼女が黙っていると、周囲が場を繋いだ。
「瑞樹さんならイケますよ」
「スモックとか似合いそう」
「女子アナがアイドルに挑戦、これでいきましょうよ!」
その声を聞いて、瑞樹はほぼ脊髄反射的に、いいわね、とつぶやいた。
シンデレラのドレスを試着できるというなら、着てみたい。ガラスの靴だって。
とはいえ瑞樹は、この場の冗談として話が片付くと予想していた。
世の中そんなに甘くないわ。
だが、世の中の方は彼女に甘えた。
テレビ業界は停滞期にあった。
クイズ、雑学、単発短編のドラマ、一発屋の芸人、不愉快な政治ショーのローテーションに、視聴者はうんざりしていた。
刺激的な企画が必要だった。
そして、30手前の女子アナがアイドルに挑戦、というのは十分に刺激的だった。
話は瑞樹を余所にトントン拍子に進み、彼女が企画について知ったときには、万全の体制が出来上がっていた。
『川島瑞樹28歳、アイドルはじめました』
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川島瑞樹は、初めて346プロダクションに足を踏み入れた。
ヨーロッパの豪奢な古城を模した外観。内部は現代風にアレンジされている。
瑞樹は鼓動が高まりを感じた。
緊張してる。何年ぶりかしら。
コツ、コツとヒールの音がホールに響く。
来た。来てしまった。
やれるのかしら。やるしかないわ。
受付の女性に声をかけると、すぐに別の職員が現れ、丁寧な対応で会議室まで案内された。
ドアを開けると、中には346プロダクションの人間がいた。
瑞樹の視線が、そのうちの1人に吸い寄せられた。
片桐早苗。
「やっほー、奇遇だね!」
なんの気負いもなく、彼女は瑞樹に声をかけた。
「まったく奇遇ね。ここにはよく遊びに来るのかしら?」
「閉じ込められてるんですよ〜」
「ふふっ」
瑞樹ははっとした。いつもの自分なら、出先でこんな会話はしない。
そっともう1人の男に視線を動かすと、相手はゆったりと微笑んだ。
歳は25歳前後。瑞樹よりも少し若いくらいだろうか。
顔立ちに特に目立ったところはないが、清潔感があり、瑞樹は好感を持った。
「ごめんなさい、ちょっと……」
楽しくて、という言葉は我慢した。早苗はごく自然に、瑞樹の緊張をほぐしてくれた。
「いえ、僕も見ていて楽しかったですよ」
彼は瑞樹に名刺を差し出した。346プロダクション、プロデューサーと書かれている。
「気軽に、P君と呼んでください」
「名前はいいのかしら」
「このプロダクションに入ると、戸籍が抹消されて名前がなくなっちゃうんです」
瑞樹は、くっ、と吹き出した。彼はだいぶ多忙らしい。
「それじゃあP君。
企画の方からある程度説明は聞いてるんだけど、プロデュースについて詳しく聞かせてくれるかしら」
「はい」
プロデューサーは会議室の電気を消し、プロジェクターを起動した。
瑞樹は早苗と、1つ席を空けて隣に腰掛けた。
すると、早苗の方が席を詰めた。
「夜風が冷たいの」
「今は昼間だし、暖房も入ってるわ」
「つめた〜い」
早苗がけらけらと笑った。瑞樹は戸惑った。
30手前になった得たものは、空虚な名誉と、他人に対する警戒心ばかりだと感じていた。
女子アナになったばかりの頃、同世代のアナウンサーの大半は敵だった。
早苗もアイドルになって自分と似たような経験をしたのではないのだろうか。
どうして、こんな風に無邪気でいられるの?
どうして、私はこんなにいい気持ちなの?
「それでは『川島瑞樹育成計画』について、今から説明いたします」
スライドショーが動き始める。
期間は来年の夏までの、9ヶ月。
はじめの4ヶ月で基礎的な技術を修得し、5ヶ月から大規模な活動を展開。
そして最後の9ヶ月目に、生放送でコンサートを行って活動終了。
概要なそんなものだった。
「質問はありますか」
「アイドルって4ヶ月でなれるものなの?」
瑞樹は問うた。
まだアイドルでないとはいえ、瑞樹にも多少の知識はある。
トークは現状でよいとして、ダンス、ボーカルがたった4ヶ月で“もの”になるだろうか。
「なってください」
プロデューサーがそう答えた。なるしかない、と瑞樹はため息をついた。
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「で、これが記念すべき第一歩……そういうわけね」
「人類にとっては偉大な一歩になりますよ」
瑞樹がはじめに行うことになったのは、写真撮影だった。
ただの写真ではない。水着での撮影だ。
「親が泣くわ……」
「全世界の人が笑顔になるなら、やむをえない犠牲です」
プロデューサーはぬけぬけとそう言った。
瑞樹ははじめ、彼に若さ相応の甘さや、理想っぽいところがあるのではないか、と考えていた。
だが彼は、至極現実的に計画を立てていた。
「水着でないとダメなのかしら」
「ダメではありませんけど、“あの川島瑞樹が”という立場に甘えてほしくないですね」
「P君は結構ドライなのね」
「冬ですからね。春からはやさしくしますよ」
ふふっ、と声が漏れた。
女性に優しい、そんな自分が好きな男より、よっぽどいい。
瑞樹は更衣室で、これから着ることになる水着をつまみ上げた。
神様。いるなら聞いてほしい。
あなた頭がおかしいわ。
用意された水着は、旧型のスクール水着。
胸の部分には、「みじゅき」とひらがなで名前がプリントされている。
瑞樹は電話をプロデューサーに繋いだ。
『どうかしたんですか』
「どうかしてるわ。親が発狂するかも」
『避けられない犠牲ですね』
「避けたいのだけど」
『ダメです』
プロデューサーは旧型のスクール水着がいかに有用であるか説明した。
第一に、肌の露出が少なく被写体の精神面に負担が少ないこと。
第二に、身体をぴっちりと締め付けることによって体型を整えられること。
第三に、スク水が嫌いな男が存在しないこと。
「第一がまずおかしいんだけど」
『童心に帰った気持ちでいきましょう。
撮影が終わったらアイスクリームを買ってあげますよ』
「わーい」
瑞樹は電話を切って、ため息をついた。
ネジを数本くらい落とさなければ、アイドルはやってられないのかもしれない。
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しばらくして、撮影スタジオに瑞樹がやってきた。
プロデューサーも撮影陣も、この場にいる全員の男、女も息を呑んだ。
水着で覆われているが、瑞樹のプロポーションは隠されてない。
ほっそりとした顎から下の、肉体。
早苗とは別ベクトルで、瑞樹の肉体はまさに肉感的だった。
掌におさまるだろうか、おさまらないだろうか。そういう妄想をかき立てる胸。
キュッとしまったくびれ。そこからさらに下の、悩ましげに均整のとれた臀部。
太ももからつま先までも、指でその形をなぞりたくなるほどに、艶やかに磨きぬかれている。
女。それは成熟した、28歳の女の理想の身体だった。
背筋に震えが走るような魅力が、スクール水着の下をうごめいている。
周囲の反応に、瑞樹は静かな興奮を覚えた。
スーツを脱ぎ捨てることがこんなに快感だったとは。
「はじめましょう」
瑞樹がそう言うと、カメラマンは我に帰った。
まさに忘我。カメラを持つ腕に、うまく力が入らない。
まるで、初めて撮影をやったときみたいだ。
彼は額から汗をぬぐい、もう一度カメラを握った。
震えは止まっている。だが、心はまだ動揺している。
はやく。はやくシャッターを押したい。
永遠にしたい。俺だけのものにしたい。
「そ、それじゃあ、こちらのほうに……」
カメラマンの声が裏返る。
だが笑う者はいない。むしろ皆、彼を羨む。
彼はこれから数十分、撮影がもつれれば数時間、川島瑞樹に好きなポーズをとらせることができるのだ。
どんな扇情的なポーズでも。無論、瑞樹がいやがらなければだが。
「それじゃあまず、膝を抱えて、そう…腰は地面につかないようにして……」
「こうかしら」
胸と腹が膝でかくれてしまうかわりに、臀部が後ろへはりだす。
脇腹から、お尻までの横のラインがくっきりと浮かびあがある。
「身体はカメラに対して横向きで……顔はこちらに向けてください。
笑って……いや、そのままでいいです」
元々は笑顔の写真を取るつもりだったが、少しの困惑と照れが入り混じった、複雑な表情がカメラマンの心を捕えた。
フラッシュが焚かれる。彼はそれを伝えるべきだったが、焦った。
瑞樹は片目をつぶってしまった。
「言ってちょうだい。まぶしいわ」
「ご、ごめんなさい」
口では謝りつつも、彼はさっと写真を確認していた。
あたかも、女子校のプールを盗撮したような代物が出来上がっていた。
これは売り物にならない。彼は思った。
俺が責任を持って処分しよう。彼はほくそ笑んだ。
「次はうつ伏せになって、そう、そこから両手で頬杖をついてください……右膝は曲げて、上に……はい。次は笑って」
瑞樹は徹底的に磨き上げた、28歳の肉体をカメラの前に投げ出した。
表情が自然になっていく。笑顔に余裕がある。
プロデューサーは自分の太ももを手でまさぐった。
本当に同じ太ももだろうか。
瑞樹の身体は美しい。見る者に、自分が何者なのか忘れてさせてしまう美しさだ。
プロデューサーは歯噛みした。何故こんな逸材を、いままでほうっておいたのか。
撮影は、カメラマンが周囲に制止されるまで続いた。
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写真集が刷り上がるまで、1ヶ月ほどかかる。
その前に、基礎レッスンが始まった。
「初めまして。私が川島さんを担当させてもらいます、トレーナーです!」
「本名は?」
「抹消されてます!」
瑞樹は吹き出した。
このプロダクションは、アイドルの緊張をほぐす技術に長けているらしい。
「それじゃあトレーナーさん、お手柔らかに」
「よろしくお願いします!」
どっちがお世話になるのやら、と瑞樹は微笑んだ。
だがレッスンが始まると、その微笑みが消えた。
体型を維持するためにスポーツジムには通っていた。
だが、ウォーミングアップの時点で息が上がる。
「いつもこれくらいなの……?」
思わず、気弱な声が出る。
トレーナーははつらつとした笑顔で答えた。
「いえ、今日は川島さんがどれくらい動けるか見るためなので」
「厳しめ?」
「抑えめです!」
瑞樹は苦笑いした。なにせ4ヶ月。レッスンも超特急になるだろう。
「ダンスの経験はありますか?」
「大学のレクリエーションと、社交ダンスが少々」
「じゃあ全くの素人ですね。がんばりましょう!」
ずいぶんモノをはっきり言うわね。瑞樹はまた苦笑いした。
だが瑞樹はこの、みずみずしい23歳の少女を気に入った。
ちやほやされて気を遣われるか、必要以上に高圧的にされるか、その2つでしかなかった。瑞樹にとってコミュニケーションというのは。
ここでは違う。
346での瑞樹は、仮初めとはいえ、アイドルになろうとしている1人の人間だ。
少女というには若くないが、“女”に振り回されるほど、周囲が無理解でない。
人生ではじめてするダンスのステップや、身のこなしに瑞樹は戸惑う。
あっという間に身体から大粒の汗が吹き出し、膝や背中が悲鳴を上げる。
休憩中、片桐早苗がレッスンルームにやってきた。
「ちわ〜、早苗屋でーす」
「あらサブちゃん。今日は土曜日よ」
瑞樹は自然に、相手に言葉を返すことができた。
早苗の魅力がなせる技なのかもしれない。
「差し入れ、持ってきましたよん」
早苗は、栄養ドリンクの入ったバスケットを提げていた。
ドリンクの蓋には、星型の突起がついている。
「なに、この攻撃的なデザイン?」
「スタドリ。ウチの中でだけ出回ってるドリンクなんだけど」
「へえ……」
瑞樹は1つ手に取り、しげしげと眺めた。
「効果あるの?」
「ありますあります!
一口飲むだけで疲れが吹っ飛んじゃう!」
「大丈夫なの?」
「極端な被害妄想を抱いたり、瞳孔がひらきぱっなしになったり、幻覚が見えたり、自傷行為に走ったりするくらいかな」
「ヤバイ薬じゃないの!」
「ジョーダンジョーダン」
早苗がけらけらと笑う。
その笑顔を見るだけで、瑞樹は疲れがひいていくような気がした。
「トレーナーさん。瑞樹ちゃんはどんなカンジ?」
「ズブですね!」
「苦労かけるわ」
「苦労しますね!」
トレーナーが瑞樹を一刀両断する。
早苗があごをつきだして、トレーナーに言った。
「ちょっとぉ、さっきから年上に対する物言いがおかしいんじゃない?」
「手を緩めても、将来的に恥をかくのは瑞樹さんですよ。
私も“あの”川島瑞樹の担当になって必死なんです」
もっともな言い方だった。早苗はやれやれと肩をすくめた。
「これでも優しい方だから驚いちゃうわ」
「もっと厳しい日もあるの?」
「日、っていうか他にもトレーナーがいて…この子のお姉さんなんだけど」
「どんなカンジよ」
「鬼。なんども泣かされちゃった。びえーんって」
その姿を想像し、瑞樹はお腹を抱えて笑った。
いつ以来だろう、こんなに笑ったのは。
「お腹痛いわ…ふふぅ……フッ…!」
「片腹ですか?」
「全腹よ。クックック……」
悪役のような素振りに、早苗もトレーナーも笑い出した。
たのしい。ほんとうに。
もっと早くアイドルをやってみてもよかった。瑞樹はふと、そう思った。
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レッスンに身体が慣れてきた頃、写真集が完成し、発売された。
ゲラ刷りの段階で瑞樹は目を通していたが、いざ実物が完成すると、なんとも言えない気持ちになった。
やってしまった、と。
写真集は売れた。飛ぶように売れた。
その利益だけでも、制作側はホクホク顏だという。
結婚だの旦那だのと言っていた連中も、手のひらを返して瑞樹を応援した。
だが2人だけ、そうでない者がいた。
「だからお父さん……あれは不可抗力で…」
両親。
写真集が発売されてから2日後に、電話がかかってきた。
なにを考えているんだ。
どうかしている。
嫁入り前にあんなことをするんじゃない。
怒鳴り声でずっとまくし立てられると、瑞樹のほうにも反発心が出てきた。
「私は、私の幸せを追いかけたいの!
女としてでも、お父さんの、お母さんの娘でもなくて……!
ねえ、わかって。わかってよ……」
瑞樹は甘えるような声を出したが、また怒声が飛ぶ。
瑞樹は電話を切った。そして番号を非通知にする。
1月08日の夜。大晦日も元旦も実家には帰っていなかった。
瑞樹は早苗に電話をかけようとした。だが、時間が時間で、LINEを送った。
飲みにいかない?
既読はすぐについた。
タダイマ収録オワリ。ヒトヒトサンマル、銀座駅C9ニテ。
瑞樹は思わず涙を落とした。
夜の銀座駅には浮かれる若者はおらず、静かに賑わっていた。
早苗は、肩パッドで上半身がやたら大きく見える、赤いトレンチコートを羽織っていた。
中は白いセーターで、下は膝までの長さのスカート。
首には金のネックレスを巻いていた。
「早苗さん、それ…」
「可愛いでしょ」
「うーん……その、ユニークだわ」
瑞樹は努力して、褒め言葉を見つけた。
瑞樹の方は、清潔感のあるホワイトシャツに、灰色のチェスターコートを合わせている。
ボトムスは脚がすらりと長く見える、黒のジーンズ。
早苗と比べればおとなしいコーディネートだった。
もっとも、今の早苗と比べれば大半の女性はおとなしく見える。
「予約はもうとってあるの。
味はまあまあだけど、信頼できるお店よ」
「もうお腹ペコペコ。
大人になれない悪ガキどものせいで、今日も世直しが捗ったわ」
「番組のこと?」
「そう。今日は亜季ちゃん…アイドルの、と拓海ちゃん、この子もアイドルなんだけど、その2人もいたから心強かったわ〜。
そこらのガキンチョがまるで子猫ね」
「猫なら可愛いじゃない」
「そうね……何をしたっていいって、そんなカンジ。ちょっと羨ましかったわ」
早苗がしんみりとした声を出す。
彼女の年齢について悩むことがあるのか、と瑞樹はひとりで安心した。
店は完全個室の居酒屋で、人目はない。店員の口も堅い。
料理の腕よりも、そういった点で評価されている店だった。
「それで、早苗ちゃんになにを相談したいの?」
早苗は座った途端にそう切り出した。
口調はいつものようにやわらかく、深刻ではなかった。
「親」
「なるほど」
瑞樹が一単語を発しただけで、早苗は相手の状況を把握した。
珍しい話ではないからだ。同じような質問を、他のアイドルからもされている。
「嫁入り前のおなごが〜ゴニョゴニョ〜ってところでしょ」
「理解がはやくて助かるわ」
瑞樹は込み入った事情を説明せずに済んだことに安堵した。
「まあ、ほっとけば」
早苗はそう言った。
瑞樹は、非通知にした10ケタの番号を思い浮かべながらも、抵抗した。
「ほっとくって……親よ?」
「親の言いなりになるような歳じゃないでしょ、お互い。
親で人生潰すのは10代だけで十分よ。
それともなに、アイドルになったこと後悔してるの?」
早苗は口を尖らせた。
瑞樹は初めて、早苗の攻撃的な一面を垣間見た。
「してないわ」
「じゃあいいじゃん。
子どもがずうっと自分の思い通りになるって思ってる親なら、いっそ捨てちゃいなよ。
親の命令で結婚して、旦那と子ども作ってさ。
親が死んだ後、今度はその旦那と子どもに振り回されるわよ。
それであーっという間におばあちゃんになっちゃうの。想像できる?」
想像したくない。瑞樹は強くそう思った。
「注文お願いしまーす」
黙っている瑞樹をよそに、早苗はコールフォンで店員を呼んだ。
常連の瑞樹より手慣れた様子で、てきぱきと料理と酒を頼んでいく。
「とりあえずビール。ジョッキで2つ。
枝豆、タコの唐揚げ、それからこの、期間限定の石焼ビビンバと……その、サラダで」
店員が戻ったあと、瑞樹は口を開いた。
「サラダ」
早苗が、ぽりぽりと頭をかいた。
「サラダで、ごまかせない?」
「ごまかせないわ」
「記念日だから……」
「旦那いないでしょ、アンタ」
瑞樹はさきほどの応酬の、ささやかな復讐を成し遂げた。
アイドルとしては早苗が先輩だが、ダイエットについてなら瑞樹が上手だ。
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レッスンのジャージ姿が板についてきた頃、瑞樹はトレーナーに尋ねた。
「そういえば、カメラを見ないわね」
女子アナがアイドルに挑戦という企画ならば、基礎レッスンの段階で撮影されていてもおかしくない。
だが、瑞樹はカメラのプレッシャーを感じたことはなかった。
「プロデューサーがつっぱねたんですよ」
「あら優しい」
「人様に見せられる代物じゃないって」
「そうね……」
瑞樹はがっくりとうなだれる素振りをした。心は落ち込んでいない。
「ひょっとして彼ってすごい人なの?
普通なら、テレビ局にペコペコする歳じゃない」
「346がすごいっていうのもありますけど……まあ、あのひとは遣り手なので」
「やるの?」
「熟女キラーって呼ばれてますよ。アラサーから上が大好物みたいんです」
「連続殺人犯なのね」
「ええ。最近は警官を手にかけました」
瑞樹は愉快に咳き込んだ。
早苗が時々攻撃的になる理由が、ちょっとだけ理解できた。
「まぁ瑞樹さんは写真集の方でだいぶ盛り上がりましたから、局の方も不満はないかと」
「この前はセーラー服だったわ。やっとまともな衣装になったの」
この前はスモックだった。
最近連絡をとっていないが、両親は泡を吹いて倒れたかもしれない。
「それで、トレーナーさんから見て私はどれくらいになったの?」
ダンスの基本的な動きは全部覚えた。
ボーカルも、アナウンサー時代の貯金があり、思ったほどの苦労はしなかった。
だが、トレーナーの返答は冷淡だった。
「50ってところですね」
「パーセント?」
「点です」
「何点満点?」
「200です」
瑞樹は、はぁー……と息をついた。やはり、アイドルは甘くない。
「内容は?」
「表現力不足です。
率直に言って、川島さんのパフォーマンスは心に迫るものがありません」
小手先の技術はモノにしたが、舞踏会への道のりは遠い。
そう、踊りがうまいだけならダンサー。歌が上手いだけなら、シンガーでいい。
何かが足りないのだ。一言では説明できない、何かが。
「CDデビューまで、あとどれくらいかしら?」
「1ヶ月ですね。そっちは問題ないと思いますよ」
「あら、思ってもないことを」
「最悪編集でごまかせますから」
瑞樹は苦笑した。346プロダクションに来てから、苦笑の連続だ。
ここの人間は手加減を知らない。
だが決して、悪い気分ではなかった。
「問題はCDデビュー後のミニライブです。
大体のアイドルがここで失敗します」
「早苗さんも?」
「ええ、早苗さんも」
瑞樹は息を飲んだ。
できることなら失敗はしたくない。
28歳になって忍耐強くはなったが、保守的にもなっている。
失敗を過剰に恐れている。
「レッスンでなんとかなるかしら」
「なんとも言えませんね……。
レッスンでガラスの靴は履けるようになりますけど、
その後割れずに済むかどうかは、本人と現場の空気次第なので」
「割れたら?」
「しばらく残りますね。結構痛いですよ」
いーっ、と瑞樹は口を横に開いた。
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ミニライブ当日。
デビュー曲の歌詞も、振り付けも完璧に頭に入っている。
問題は、衣装だった。
襟が白く、やたとくっきりと大きい、青のワンピース。
ところどころにラメが入っていて、輝きがけばけばしい。
曲調が80年代だからって………。
瑞樹はふっと微笑んだ。早苗の顔が浮かんだ。
早苗なら喜んで着るだろう。
その衣装を着て、仮控え室に運ばれた姿見にうつる自分を、しげしげと眺める。
でも、ずっと若々しく見える。
まるで、アイドルみたい。
瑞樹はもう1人の自分の輪郭をなぞろうとして、指がふれあう。冷たい。
「お似合いですよ」
瑞樹が振り返ると、プロデューサーがいた。
スーツではなく、白いシャツと真新しい紺黒のジーンズ。私服のようだった。
瑞樹は、わけもなく羞恥心を覚えた。
「嫌味だわ。28歳の女に、こんな服を着せて」
「スク水の方がよかったですか」
「今日の衣装は最高ね! ライブの後脱ぐのがもったいないくらいだわ!」
瑞樹はステージに向かった。足取りはぎこちない。
とうとう、本当のライブ。場所は郊外のショッピングモールの一角。
“あの”川島瑞樹。客は集まっている。
1階だけでなく、2階、3階からも瑞樹を見下ろす人たちがいる。
ざっと見積もっても数百人。ミニ、という修飾語が冗談に聞こえてしまう。
そして、今日はテレビ局のカメラも。
瑞樹の足に震えが走った。
人前でパフォーマンスをするのは、苦ではないと思っていた。
だがアナウンスの時とは全く違う。
ごまかしがきかないわ。ここは、明るすぎて。
瑞樹の全身が、つまびらかになる。
肌がちくちくと痛いのは、照明ばかりのせいではない。
視線が、刺さる。
「今日は、川島瑞樹の初ライブにお越し頂き、ありがとうございます」
言葉は淀みなく出る。貯金はまだ使えるようだ。
「アイドルとしては駆け出しですが、今日は全力を尽くします。
それでは、始めましょう」
音楽がかかる。
ステップ……。だが、瑞樹の身体は出遅れた。
小さな歪み。そこからパフォーマンスが、いびつになる。
ダンスが崩れれば、呼吸が乱れる。
呼吸が乱れれば、歌も狂う。
歌が狂えば、ダンスのリズムがおぼつかなくなる。
失敗、失敗。
瑞樹の頭が真っ白になる。
鼓動が自分でも聞こえるほどに大きくなる。
立て直さなきゃ……。
その焦りがさらにミスを誘発する。
ステップが鈍くなり、歌詞が飛ぶ。
ガラスの靴に、大きなヒビが入る。
やがて、瑞樹はステージに尻餅をついた。
立たなくては。だが、足がもつれてうまく立ち上がれない。
目眩がする。景色がぐにゃりと揺らぎ、吐き気がする。
観客達の顔。不安、失望、嘲笑………。
かろうじて、涙はこらえる。
その後、瑞樹は何もすることができずに、音楽が終わった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「おつかれさま」
悲惨なミニライブから逃げるように帰って来た瑞樹に、早苗が言った。
瑞樹はレッスンルームで衣装のまま、座り込んでいた。
泣いてはいない。だが、泣くよりも、見る者の心が締め付けられるような表情だった。
「……こんなはずじゃなかったわ」
「みんなそう言うわ。
そう言った先輩を見て、自分は違うと思っても、結局ね」
早苗は肩をすくめた。
「天使と一緒に遊べなかったのね」
「私はまだ人間って、そういうことかしら」
瑞樹も肩をすくめた。やや、表情がやわらいでいる。
心と頭と表情を切り離す。アナウンサーの習性が遅れて、こんなときに顔を出す。
「また明日から仕切り直しね。
今からのこのこアナウンサー業に戻れるわけじゃないし」
プロジェクトが始まってから、瑞樹が担当していた企画は後輩達が引き継いでいる。大きな顔をして“出戻り”はできない。
「わかってるとは思うけど…レッスンを厳しくしても、瑞樹さんの課題は解決しないわよ」
「そうね…私もそう思う。場数を踏まなきゃね」
瑞樹がそう言うと、早苗が、あー、と声を出した。
「なによ」
「場数とか経験とかの問題じゃないの。もっと……」
「内面?」
「“川島瑞樹はどんなアイドルを目指したいのか”」
早苗が声をわざと低くして、瑞樹にささやいた。
「目指すって……私はまだ女子アナよ?」
「テレビ局の企画でもさ、作らなきゃ。
じゃないと多分、同じ失敗するよ。
自分がどんなふうになりたいのか何を表現したいのか。
それがわかってなかったら、パフォーマンスも何もないわ」
アイドルの先輩として、重い言葉だった。
だが、瑞樹はすぐに答えが出てこなかった。
憧れはあったとはいえ、なしくずし的にここにいる。
いままでは渡されたものをこなすだけでよかったのだ。
ニュース原稿。番組の脚本、アナウンスの台本……。
社会人になってから、自分でものを考えてなにかする、という経験があまりにも浅い。
仕事に個性も私情もなかった。
その弊害が、今になって現れている。
「早苗さんは、どんなアイドルなの?」
瑞樹は早苗に尋ねた。間髪入れずに答えが返ってきた。
「夜中にジョッキビール飲んでも叩かれないアイドル」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ミニライブの後、瑞樹のもとに大量のファンレターが届いた。
彼女を気遣うような内容が大半で、残りはアイドルになったことを咎めるような趣旨
の殴り書きだった。
アナウンサーだけでいた時から手紙は届いている。その頃はあまりにも多忙で、きちんと目を通したことはなかった。
だが、今の瑞樹はどんな内容であれ、一通一通目を通した。
そのうちのひとつが、瑞樹の心に引っかかった。
“関西親父より”
瑞樹は手紙を一度折りたたんで、もう一度開いた。
“はじめまして。私は瑞樹さんがアナウンサーとして駆け出しの頃からのファンです。
朝、瑞樹さんの声でニュースが読み上げられるのを聞くのが毎日の日課でした。
アイドルになってからは、瑞樹さんがテレビであまり見れなくなって寂しい気持ちです。 アイドルになったことに不満があるのではありません。ただ、寂しいのです。
写真集を見ました。
一作目はテレビ局やプロダクションの良心を疑いましたが、二作目からはとても良いと思 います。
アナウンサーに専念してほしいとは思いますが、私は瑞樹さんの意思を尊重します。
それでは、また。
関西親父より”
瑞樹はまず吹き出し、次に口元を手で覆い、最後にまた笑った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
手紙を読んだ3日後から、瑞樹はレッスンや仕事がないときでも、プロダクションに顔を出すようになった。
自分がどんなアイドルになりたいのか。何者になりたいのか。
今はまだわからない。
そこで瑞樹は他のアイドル達と話をしてみようと思った。
プロデューサーからの提案もあった。
「周りを見て180度変わるひともいますし、360度まで回っちゃう子もいますよ」
瑞樹が346プロダクションのホールを歩いていると、1人の女と出会った。
半身を柱の影に隠し、若草のような艶のある髪をふわふわと揺らしながら、翡翠色の瞳で瑞樹を遠巻きに見ていた。
瑞樹はその相手の名前を知っていた。
高垣楓。モデルとして、少し前まで流行っていた女。
その女が、何故自分を見ているのだろうか。
「あの……」
瑞樹が柱に近づくと、楓はさっと柱の裏に全身を隠した。
瑞樹が裏に回ると、楓はさらにその裏に回った。
柱を時計回りに5周ほどしたあと、瑞樹は急に反時計回りに身を翻して、楓を捕まえた。
「なぁ〜にをしてるのかしら?」
「そちらこそ……」
やや不機嫌な声で、楓が返事をした。りん、と響くような声。
瑞樹はまじまじと、相手の顔を見つめた。
左目の下には泣きぼくろがあって、みずみずしい唇が横にむっつりとしている。
瑞樹がさらに目をこらすと、翡翠と蒼氷の瞳が瑞樹を見つめ返した。
どきり、とした。
「私に、なにか用?」
「川島さんこそ、プロダクションに何か御用でしょうか」
会話の堂々巡り。
瑞樹は相手が、自分に対してあまりよくない感情を持っているのを肌で感じた。
そこで、瑞樹は楓の手に手錠をかけるような素振りでこう言った。
「御用だ御用だ〜」
瑞樹としては、あまり上出来ではない、と思っていたが、楓はきゅっとくびれたウェストを抱えて、笑い出した。
「お腹いたいです……ふふっ…!」
「いたがきかえで?」
楓がさらに身体を丸めて、遂には床に転がった。まるで子猫のようだった。
楓はしばらく笑い転げたあと、すっくと立ち上がって、瑞樹を指差した。
「こ、これでかったとおもうなよー……」
棒読みでそんなことを言ったあと、楓はぱたぱたと立ち去った。
瑞樹がアイドル課のリフレッシュルームへ向かうと、そこには早苗がいた。
「さっき、なんだか変なコを見たんだけど」
「楓ちゃんのこと?」
「“変なコ”でわかっちゃうのね……」
瑞樹は息をもらした。
自分をどう思っているかはともかくとして、瑞樹は楓のことを一目で気に入っていた。
「あのコ、なんだか私を目の敵にしてるみたいなんだけど……早苗ちゃん、心当たりある?」
「ありますねぇ!」
早苗はけらけらと笑った。すべてに合点がいっている。そのような様子だった。
「私の写真集がヒットしたから、かしら」
楓はモデルで、最近はあまり写真集を出していない。
瑞樹が被写体として売れたのが、気に入らないのではないか。
「ぶっぶぅ〜〜ハズレでーす」
早苗は口をすぼめて、愉快そうに言った。
「楓ちゃんはもうモデルじゃないわ。
瑞樹ちゃんの少し前に、アイドルに転向したの」
「じゃあ、私が……その、注目されてるのが気に入らない、とか」
「ぶっぶぅ〜〜ハズレ2でーす。
楓ちゃんはそこまで根性曲がってないよ〜」
たしかに。
少しの言葉を交わしただけだが、瑞樹は楓の純真さを感じ取っていた。
「ヒント、もっと単純なことです」
「単純?」
「童心にかえってみて。大体幼稚園くらい」
「保育園だったわ」
「じゃあ保育園児。で……」
瑞樹はこめかみにひとさし指を当てて、童心に帰ってみた。
「私は5歳…いえ4さい、よんしゃい…みじゅきはよんしゃい…」
早苗がほぼえずきに近い声で笑い出す。
「真剣にやってるんだから笑わないでちょうだい!」
「あっ、ハイ」
「う〜ん…おもちゃ…ぬいぐるみ……」
「近い近い。命を吹き込んで」
「命とは……せんせぇ…」
「いいカンジ」
「せんせぇ、みじゅき、と……ひょっとしてP君と関係ある?」
早苗が親指と人差し指で○をつくる。
瑞樹は答えにたどり着いた。
「楓ちゃんはさぁ、プロデューサーがモデル部門から引っぱってきたんだよね」
「で、そのP君が私が独占しているのが気に入らない……と」
「ピンポーン。グリフィンドールに50点」
「ハッフルパフのほうが好きなんだけど」
「私はスリザリン」
瑞樹はくつくつと笑った。
早苗との会話だけでなく、楓の子どもっぽさがおかしかった。
羨ましくもあった。
「みんなから25歳児って言われてんの。楓ちゃん」
早苗は屈託のない表情を浮かべた。瑞樹は、ひとまず安心した。
「あの子と仲良くなりたいわ…ちょっとむずかしいかもしれないけれど」
「かんたんかんたん!」
早苗は手首をくいっと口元でひねった。
「今時、“ノ”ミュニケーションはパワハラになるんじゃない」
瑞樹は過去の、不愉快な記憶がよぎった。
酒が全ての関係を生み出すとさえ思っている輩が上にいて、ずいぶん苦労した。
瑞樹はよく酌をさせられた。その上司だけでなく、同僚や後輩の男にも。
それと同じことをしたくなかった。
「パワハラどころか、逆にこっちがアルハラされるわよ」
早苗は少し誇らしげな顔で胸をそらした。ゆれる。
「楓ちゃんは現代のキリストね。
あの子の血って、きっと全部アルコールだと思う」
「ワインが好きなの?」
「な〜んでも。ワインでもビールでも、ポン酒でもスコッチでも……きっと、ひともおんなじ」
瑞樹は、楓との遭遇を思い返した。
25、25歳。
私とはちがう道で、20代の半分まで生きてきたんだわ。
瑞樹は差別をしたことはないが、博愛主義者ではない。
軽蔑を軽蔑だとわかっている。嫉妬を嫉妬だと知っている。そういう道を選んだ。
楓はきっと、ひとの悪意を感じ取れないのかもしれない。
自分のうちにないものに共感ができないように。
瑞樹はそのことが、楓がモデルとして成功しなかったことと関係があるような気がした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「もしもし楓ちゃん?
みずきちゃ……川島さんおごってくれるって!
え……?
飲み会ですよ飲み会! パァーッとやろうよ! おごりなんだから!」
早苗がそう電話すると、楓は居酒屋まで、まさに飛ぶようにやってきた。
「川島さんっていいひとだったんですね……」
知らぬ間に注文した焼酎をロックで鳴らしながら、楓が言った。
店で一番高い焼酎だった。名前の通り、瑞樹の財布に悪魔的な打撃を与えるだろう。
でも、こんなことで仲良くなれるなら。
瑞樹は知っている。
少女を過ぎると、いや少年でも、新しいひとと深く交わるのに億劫になる。臆病になる。
友達をつくるのが、むずかしくなる。
瑞樹は楓に微笑みかけた後、早苗のほかに、もうひとりのアイドルの方を見た。
濡れているような、爛々と艶のある黒髪が垂れている。
瞳は、どこか眠たげにほそめられ、退屈なのか、たのしいのか区別がつかない。
小さく、それでいて肉感的な唇。
その唇に、ワインがすいこまれていく。
「あの……」
瑞樹は相手の名前を知らない。早苗も教えてくれなかった。
その女は、グラスとの口づけを一旦止め、目をさらに細めた。
「私は、“あの……”なんて名前じゃないわ……あなたは?」
「ええと、その、川島瑞樹です」
瑞樹は口ごもった。相手の感情が、ちくちくと自分の肌を刺すようだ。
思い当たる節がないわけではない。
「ええ、知ってるわ。あなたは、有名ですものね……」
女は、またワインを飲む。
明らかに、瑞樹との会話をいやがっている。
それでも瑞樹は無視して早苗や楓と談笑するわけにもいかず、相手をしばらく見つめた。
早苗と楓は、電子端末でメニューを“高い順”で表示し、液晶でピアノを弾くようにしている。
「31」
唐突に、女が言った。ひどく不機嫌そうな声だった。
「はい?」
「私の年齢よ」
瑞樹はその言葉から、相手が何故刺々しい態度をとるのか察した。
だがそれは瑞樹の選択によるものではなく、どう責任をとり、相手を和ませればよいかは未明である。
また2人で押し黙っているうちに、料理と新たなワインがテーブルに運ばれてきた。
場所は、近年流行りの肉バルと呼ばれるレストランで、名が示す通り上等な肉料理と酒が売りである。
香ばしく匂い立つ、熟成肉のステーキ。華はないが、力強い味わいのスペイン産の赤ワイン。
瑞樹はいちはやく小皿とトングを取り、未明の女の分を取り分けた。
年長である。くわえて、少しでも印象を良くしたい。
露骨にきらいだと見せつけられるのは癪だったが、年長、相手の年齢からたしかに学び取るものがあると感じた。
「ありがとう」
女は素直に礼を言ったが、そのあとにこう付け足した。
「でも、ちょっぴり多いわ」
瑞樹は女の皿から、自分の皿に肉を移した。
その手つきは素早かった。こういったことには慣れている。
「ママー私達のぶんもー」
「かわしまママ、まがみっつ……ふふっ…」
小鳥達がぴぃぴぃと、親鳥にご飯をせがむ。
瑞樹は張っていた肩を下げて、彼女達の分もとりわけた。
「うしなのに“とり”わける……ふふふっ……くっ!」
楓は勝手に瑞樹に懐いている。
そこが楓の魅力なのかもしれない、と瑞樹は思う。
「楓ちゃん、ワインを頂戴」
女があごを楓に向けた。
楓は左手でゆるく敬礼をして、新しいグラスにワインを注いだ。
「これぐらいですか」
「もっと、なみなみと」
表面張力がはたらくか、はたらかないかの位置で黒紅の液体がゆらぐ。
楓はグラスを器用に持ち上げ、女に手渡し、渡されたほうは、それをひといきに飲み干した。
顔色は変わらない。
瑞樹は会話の糸口をみつけた。
「あの、ワイン」
「なにかしら」
「ワイン、お好きなんですか?」
食い気より飲みっ気。女からはそういう印象を受けた。
はじめから料理はそこそこで、ずっとワインに口づけている。
「好きよ」
「家にワインセラーがあるんです」
駆け引きだ。だが、嘘ではない。
アクセサリィだ。誰が来て、誰と寝るわけでもないのに、高価なランジェリィを買うようなもの。
amazonか、ヨドバシで“価格順”。
入っているワインの銘柄も覚えていない。高いということのほかには。
「そう……」
女はまるで興味がなさそうに、またグラスをかたむける。
だが瑞樹は、女が飲むたびに下唇を2回ほど舐めることに気づいていた。
この店のワインに満足していないのだ。
「実は最近ワインに凝っていて、ピーターポイントとか……」
「パーカーポイントね」
女が訂正した。ふっと表情がゆるんでいた。
瑞樹はわざと言い間違えた。プライドの高い年上に気に入られるテクニックのひとつだ。
「すいません、にわか知識で……」
「志乃さんにおしえてもらったほうがいいんじゃないの〜」
ようやく早苗が助け舟を出した。瑞樹は内心で、おそいっちゅーの、と思いながらも感謝した。
「ええと、しの、さん」
相手を苗字で呼ぶことができず、おずおずとした声になった。
「なにかしら」
「志に乃で、志乃さんですか?」
「そうよ」
「良い名前ですね!」
「“川島”には及ばないわ」
「あははは!」
瑞樹は笑った。苦笑ではない。相手の気持ちがやわらいでいるのが、声色からわかった。そしてなにより、彼女の言い回しが可笑しかったのだ。
そこに、楓が腕にまとわりついてきた。すでにできあがっている。
「ぷろりゅひゃ〜」
ほおがゆるみ、ついでに口元もゆるみ、楓は年齢よりずっと幼く見えた。
この子には、誰かがそばにいてあげなきゃいけない。
きっと、それは……。
瑞樹は楓の髪をやわと撫でた。
「ごめん楓ちゃん。
楓ちゃんのプロデューサー、ちょっとだけ借りるわ」
瑞樹がそう言うと、それが聞こえたのか、聞こえなかったのか、楓はすやすやと眠りについた。
「ちゃんと洗って返しなさいよ。弱酸性で」
様子を見ていた早苗が微笑みながらそう言った。
瑞樹がくつくつと笑いながら頷くと、志乃がワインをぐっとあおりながら、吐き捨てた。
「強酸で洗えばいいのよ」
瑞樹と早苗は顔を見合わせて苦笑した。
瑞樹は心の中のメモ帳に、「なんとか志乃さんじゅう1歳児」と書き込んだ。
どうやら、彼女のことを誤解していたらしい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「川島さん、次のライブはいつにしますか?」
レッスンの様子を見ていたプロデューサーが尋ねた。
瑞樹は、ぎくりとした。
ミニライブから1ヶ月ほど経った。ダンスやボーカルも、さらに上手になった。
だが、ガラスの破片はまだ刺さったまま。
「いつがいいのかしら、ね」
ステップを止めて、瑞樹は返した。
甘えている、と思った。
「いつだっていいんですよ。来週はどうですか?」
「プロダクションの準備が……」
「川島さんのためなら間に合わせます」
やさしいような、突き放すような、どちらともつかない声色でプロデューサーが言った。
「川島さん次第です、全部」
瑞樹は助けを求めるように、トレーナーの方を見た。
トレーナーは肩をすくめた。
「川島さんは完全にブルっちゃってます!
メンタル面の強化が必要です!」
身も蓋もない言い方に、瑞樹は苦笑した。
だがトレーナーのいうことは事実で、それがプロデューサーに伝えられたぶんだけ、心は軽くなった。
「メンタル面の強化……」
プロデューサーは左上に目線をそらして、首をひねった。
「臆病なままでもステージに上げて慣らす、はダメですか」
「ダメみたいですね!」
瑞樹が答える前にトレーナーが先んじる。
数ヶ月のレッスンで、彼女は瑞樹の心を把握していた。
「それじゃあ、古典的ですけど確実な方法で」
「古典的?」
瑞樹は疑問を投げかけた。
プロデューサーは珍しく、おずおずとした調子で提案した。
「先輩のLIVEに同伴、とか」
瑞樹は彼の心を察した。
私のプライド、か。そんなもの……。
「ちょうど柊さんと高垣さんの共同LIVEが来週あります。
どうです?」
柊、志乃。食事会での刺々しい雰囲気を思い出し、瑞樹はまた苦笑した。
「行くわ。私、志乃さんとだ大、大、仲良しだから」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会場は、都内の小さなライブハウスだった。
346プロダクション所属、という肩書きも霞んでしまうような。
瑞樹は最初のライブを思い出し、自分がどれだけ優遇されているかを実感した。
そんな自分を見ている、他のアイドルの気持ちも、察しがついた。
だから、楽屋の前で足が震えた。
私には、アナウンサーっていう保険があって。
テレビ局やプロダクションのバックアップまで、ある。
罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。
とても、ドアを開けられそうになかった。
「邪魔よ……」
びくり、と肩を震わせて、瑞樹は振り返った。
柊志乃。楽屋の外にいたのだ。
「あっ……おつかれさまです」
「LIVE前につかれてどうするのよ」
志乃はふっとほおを緩めた。
だが顔色は良くなかった。元々が色白だが、そこに病的な青みが差している。誰がどう見ても、体調をくずしているのがわかる。
「柊さん、お身体……」
「不調よ。絶不調。
頭は痛いし吐き気もするわ。
念のため言っておくけど、二日酔いではないから」
志乃は髪をかきあげて、ドアに近づいた。
「やるんですか、LIVE」
「やるわ」
「また今度にするのは……」
そう言った瞬間、瑞樹の肌の表面が、ぷつぷつと沸騰した。
相手の感情を、心よりも、頭よりも先に感じ取って。
「また今度」
志乃は、ひどく低い声で呟いた。だが、瑞樹はそれが、廊下中にも響き渡るように聞こえた。
「私に……私達に“また今度”、なんてないわ。
この一瞬を全力でやるしかないの。たとえどんなに不格好でもね」
瑞樹は何も言わずドアを開けて、志乃と共に楽屋に入った。
中には、高垣楓がいた。
すでに衣装に着替えて、メイクも終えている。
「こんにちは。志乃さん、川島さん」
瑞樹は息をのんだ。
アイドルがいる、と思った。高垣楓という、正真正銘のアイドルがここにいる。
初めて出会った時、食事会の時に垣間見えた、間の抜けた愛嬌が今はなりを潜めている。
相応か、あるいは相応以上の月日を重ねて磨き上げられた美しさが、たおやかに咲いている。
「調子は?」
志乃が楓に尋ねた。
楓が答えた。
「校長みたいにぜっこーちょー……ふふっ……」
「こっちこそ。シンデレラガールも目じゃないわ」
志乃はそう言って、メイク用の鏡の前に腰掛けた。
瑞樹は言葉に表しようのない、強烈な羞恥心を覚えた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ライブハウスには気の利いた“関係者席”などなかった。
瑞樹は変装をして、観客席に紛れ込んだ。
限界まで人を詰め込んだのか、場内はひどく蒸して、くらくらした。
だが静かだった。観客たちは整然と、静まり返っていた。
それは、LIVEにぶつける熱気をもらさないように、自らを抑えこんでいるようだった。
プロのメイク技術の賜物か、瑞樹に気づくものはなかった。
瑞樹は安堵し、一方でもどかしさを抱いた。
しばらくして、にわかに会場がざわついた。
アイドルが現れた。
若草のような艶やかな髪が、ふわりとゆれる。
彼女の歩みひとつひとつが、会場にさわやかな風を吹き込むようだった。
「みなさん、お久しぶりです……あっ、はじめましてのひともいますか?」
楓の声が、場内にしみわたった。くすくすという笑い声があとに続いた。
楓の衣装は緑を基調にしたドレスだった。
淡く、若々しい。まぶしいのは、スポットライトのせいばかりではない。
「今日の私はこ……元気です!」
楓の渾身のギャグ未遂に、瑞樹は吹き出したそうになった。
同じギャグは使わないって、こだわるのね……。
会場がまたざわめいた。柊志乃が、舞台袖からステージに現れる。
背中と胸元がくっきりと開いた、黒のドレス。
熟成された妖艶さが、たちこめるように発せられている。
「こんにちわ」
その言葉はゆっくりと、単語単語の間に読点がはさまれているかのように、紡がれた。
瑞樹はぞくりと、背筋をしなやかな指でなぞられているような感覚を覚えた。
「あら、楓ちゃん。偶然ね」
「志乃さんも“おしのび”ですか……ふふっ」
志乃と楓の掛け合いに、場内にまた忍笑いが広がった。
その笑いがおさまるのを待って、志乃が口を開いた。
「今日は……いえ今日も、最高のLIVEにするわ」
瑞樹は歓声を上げた。彼女ばかりではなかった。
「ハードなハードル……ふふっ…」
楓はギャグを呟いて、一旦舞台袖に下がった。
ここからは、柊志乃のステージだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
曲はバラードだった。歌詞は、ありふれた失恋の物語。
その歌が心を揺さぶる。
志乃の声はゆらぎ、たゆたい、それでも、まっすぐに観客へ届く。
歌唱を阻まないように、コールやエールは上がらない。
だが瑞樹は、会場の温度が急上昇しているのを感じ取った。肌が汗ばんでいる。
音色に合わせて、サイリウムが揺らめく。目がくらむような、幻想的な光景。
きっと、この光景を一生おぼえてる。
瑞樹は胸に手を当てて、うずくまった。
私は……私はまだ、アイドルじゃない。
涙がこぼれそうになって、瑞樹は顔を上げた。
ぬぐわない。この気持ちを、なかったことにしたくない。
ふと、志乃と目が合う。
瑞樹は視線をそらさずに、見つめ返した。
志乃はほほえんだ。体調のことなど、微塵もうかがわせない。
ごめんなさい、とも。
ありがとう、とも。
どちらともつかない気持ちがこみ上げた。
雫が目尻からあふれて、熱くほおを伝った。
「私と貴方達に、乾杯」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
高垣楓がステージの中心に立つ。
風が吹いている。瑞樹はそう思った。
楓がすぅ、と深く息を吸い込むと、曲が始まった。
またバラード?
瑞樹はそう思ったが、歌が始まると認識を改めた。
淡雪のように切ない。だが、決してか弱くはない。
繊細にして力強く、歌詞がその世界を物語る。
オペラ、ね。
楓の存在感が歌の中にとけて、観客の魂にしみわたる。
才能もある。だが、圧倒的な技術と努力に裏打ちされたパフォーマンス。
この子はモデル“くずれ”なんかじゃない。
ほんとうに、アイドルだわ。
瑞樹は楽屋で着替えたTシャツの袖を、きゅっと握りしめた。
くやしい。そう心から思った。
そう思えたことが、うれしかった。
「ありがとうございます」
曲が終わったあとは、志乃と同じく、大きな拍手と歓声が会場にいっぱいに響いた。
人数は、瑞樹の初ライブに遠く及ばないだろう。
だが、瑞樹があの日手に入れられなかったものが、ここにはあった。
柊志乃は自らの年齢や状態に臆病になることはなく、ステージに上がった。
高垣楓も自らを偽ることなく、ありのままで曲を表現した。
自分がどんな存在なのかを、はっきり知っているから。
自分がどういうふうになりたいのか、わかっているから。
私は……。
瑞樹はまだ迷っていた。
その迷いをほどくための答えは、自分自身の中にしかない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
春の陽気がうっとうしくなりはじめる頃、瑞樹はひさしぶりにテレビ局に自主出頭した。
はじめから企画は瑞樹の裁量の埒外にあって、受け持っていた番組の後任もあらかじめ準備されていた。瑞樹は、着の身着のまま346プロダクションに送り出されたようなものだった。
さらに、プロジェクトの進捗報告はすべてプロデューサーが行なっていたので、瑞樹は局との接点がまったくなかった。アナウンサーの仕事がなければ、密な連絡を取り合う者はいなかった。瑞樹が友人だと思っていた相手でさえも、そうだった。
“アナウンサー”という仕事が、自分にとってどんな意味があったのか。
瑞樹はそれを明らかにしたくて、テレビ局に足を踏み入れた。
玄関ホールに入ると、何人かは顔を上げて、会釈した。瑞樹はそれに返した。
よそよそしかった。よそ者。
「ふふっ……」
瑞樹はひとりで吹き出して、スタジオのほうへ移動した。
今は収録の時間。瑞樹が担当だった番組だ。テレビで見るかぎりは順調だったが、撮影のほうはどうなっているのだろう。
瑞樹はシャツの襟を正して、スタジオの扉を開こうとした。
だが、警備員に制止された。
「関係者以外立ち入り禁止です」
瑞樹は口を尖らせて抗議した。
「私を知らないの」
「知ってますけど、今は収録中で出演者と製作陣以外は立ち入り禁止です」
「私はアナウンサーよ」
「こっちは警備員です」
ぐうの音も出ない正論。頭では納得できるが、心が猛然と唸っていた。
私がアナウンサーから逃げたわけじゃないのに。
テレビ局がアイドルになれと言ったのに。
スタジオから一旦離れて、瑞樹は電話をかけた。
アポイントメントはとってあるはずだけど……。
「もしもし」
『川島さんですか。お久しぶりですね』
相手はテレビ局の事務員だった。
瑞樹は事務室を話を通してから、局にやってきている。
「スタジオに入れてもらえないんだけど、どうしたらいいかしら」
『なぜスタジオに入りたいんでしょうか』
「なぜって……」
瑞樹は言葉に詰まった。それが当然の権利だと思っていたから、改めて理由を尋ねられると返事に窮する。
アナウンサーだから。川島瑞樹だから。
それがもう、通用しない。たった半年で。
いえ……“もう”半年、ね。
瑞樹は知っていた。現場から一旦遠ざかれば、それはもう局にとっては、他人なのだと。
アナウンサーでありながらも、部外者のように扱われる人間は、存在する。
瑞樹の同期にも、いた。
ほんの些細なタイミングのずれで、跡形もなく消えてしまう。
アナウンサーだけでない。マスコミや芸能界でも……アイドルの世界でも。
どうして、自分はだいじょうぶだと……。
瑞樹はテレビ局から飛び出した。
プロジェクトが終わって、後に自分の居場所が戻ってくるだろうか。
否。決してもどりはしない。
瑞樹はテレビ局が、“エンターテイメント”のために自分を切り捨てたことを悟った。
30前のアナウンサー。人気がおとろえているのは自分でもわかっていた。
せいぜい有効に利用したかっただろう。
だからって、だからって……。
またアナウンサーとして一からはじめる?
嫌。
ペコペコ頭を下げて、脂ぎったいやらしい視線と指に我慢して、またあの場所に戻りたい?
絶対に、嫌。
忘れられるのは………。
瑞樹はほぼ無意識に、プロデューサーに電話した。
『おかけになった電話番号は……』
「ごめん、P君」
『はい、こちらP君です』
「忘れられないためには、どうしたらいい?」
瑞樹は単刀直入に尋ねた。答えがもらえないかもしれない、と覚悟していた。
だがプロデューサーは答えた。
『日本で……いえ、世界で一番可愛いひとになればいんですよ』
「美しい、ではなく?」
『表面的な美しさはいずれ無くなります。内面的な美しさは、すぐには伝わりません。
ですが、“可愛い”はいつでもまっすぐ飛んでいきます。
世界中の、どこにだって……誰にだって』
ルックスのことを言っているわけではない。瑞樹にもわかる。
「どうしたら可愛くなれるかしら」
『それ、は……うーん』
先ほどとは打って変わって、プロデューサーがしどろもどろになった。
瑞樹は、この男が何故アイドル達から信頼を得るのか、理解できた。
仕事ができる、なんてことじゃない。
このひとが時々みせる“隙”が、アイドルがやりたいことと、してあげたいこととおなじなんだわ。
「今度……いえ、すぐに、じっくり話し合いましょう」
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「おつかれさま」
楽屋。
早苗は二度目のLIVEを成功させた瑞樹をねぎらった。
「最高のLIVEだったよ!」
「そうするつもりだったけど、まだまだね」
早苗は微笑んだ。
瑞樹ちゃん、ふっきれたみたい。
心の中でそう思った。
口に出さなかったのは、同じアイドルとして少し、あくまでほんの少しだけ、悔しさを覚えたから。
「アナウンサーにしておくのがもったいないよ」
「あー……うん、自分でもそう思うわ」
瑞樹の口調のにぶさに、早苗の直感が働いた。
「ふっふっふっ」
「なによ」
「これから、楽しくなるね!」
「そう……そうね。きっと、そうだわ」
瑞樹の言葉は、まだ惑っていた。
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夏のこもれびが枝葉の間をぬって、肌を焦がす頃。
LIVEのパフォーマンスも安定し、好意的な手紙がふえた。瑞樹は、その中の一通にあえて目を通さずに、毎日を過ごした。
最近は写真撮影や告知のためのバラエティなどの仕事を避けている。
プロジェクト最後のコンサートを確実に成功させるために。
パフォーマンスは、2曲。2曲目は最近書き上がったばかりだ。
その2曲目の披露は、コンサートが最初なのだ。LIVEで身体を慣らすことができない。
否が応でも、レッスンに集中する必要がある。
瑞樹の動きは端から見ても、精彩を欠いていた。
練習期間が短く、焦っているということもある。だが、そればかりではない。
トレーナーは率直に、瑞樹に尋ねた。
「何を迷っているんです?」
「人生」
瑞樹の返事に、トレーナーは面食らった。
少なくとも自分ではどうしようもない。相手は自分より五年も長く生きていて、より多くのことを知った上で、悩んでいる。
プロデューサーがどうにかできる問題でもない。
第一、彼女の人生を真に真剣に考えられるのは彼女自身か、家族しかいない。
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その夜。
瑞樹は、公衆電話のボックスの中で、ボタンを押した。コインを入れずに。
もう何度目だろうか。
携帯でかけて、出てもらえないのが怖かった。自分からかけるのも億劫だ。
だけど、もうLIVEまで日がない。瑞樹は覚悟を決めて、受話器を上げた。
『もしもし』
60を過ぎた、女性の声。瑞樹は口元を手でおおった。
言葉が出ない。
「……………」
『瑞樹ちゃん、か』
どうして、と言うことすらも、できない。
瑞樹の肌全体がけばだって、緊張で喉元がしびれる。
『言いたいことは色々あるよ……でも、怒ってないよ。
知っとるから。瑞樹ちゃんがいっぱい、いーっぱいがんばってること。
だから、“がんばれ”なんて言わん』
瑞樹はボックスの中で、くずれおちるように座りこんだ。
『いろんなこと。気が済んだら、かえってきいや』
うん。
声は、届いただろうか。
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コンサート当日。
控え室には4人のアイドルがいた。
「先輩をあごで使おうだなんてね……」
志乃が、あごを相手に向けながら言った。言葉に反して、表情はやわらかい。
「可愛い後輩のためにひと肌ぬいだろうじゃないの!」
早苗が誇らしげに胸を反らした。ゆれる。
「すげーすけっと……ふふっ」
楓が笑い、周りもつられて笑った。
「志乃さん、早苗ちゃん、楓ちゃん。今日はありがとう」
瑞樹は3人の顔を順番に見つめた。
この3人は、今日は瑞樹のサポート・バックダンサーとしてステージに上がる。
「まぁ、あたしたちも名前売りたいし」
あけすけに、早苗が言った。半分は本心。もう半分は、やさしさでできている。
「私」
瑞樹は顔を伏せて、肩をふるわせた。
「みんなに会えただけでも……」
アイドルになってよかった。そう心から、言える。
「始まる前に、ひとりで満足しないで欲しいわ」
志乃は肩をすくめた。
「行くわよ。みんな待ってるんだから。
川島瑞樹というアイドルを……」
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コンサート会場は瑞樹のアイドルキャリア史上、最大規模だった。
座席数は17,000。主催者は後悔した。チケットは販売開始数時間で完売した。
主催者側も知らなかったのだ。川島瑞樹の魅力を。だが、これから知ることになる。
瑞樹はステージの中心に立った。
じぶんひとりの力ではない。だから、こわくない。
衣装は、夏空のように青いドレス。フリルとリボンが愛らしく、瑞樹をいろどっている。
「みんなー!」
声が、のびやかに会場に広がる。その声に応えるように歓声が上がり、アリーナ全体がゆれる。
「今日も、最高のLIVEにするから!!」
形式ばったスピーチなどなく、音楽が始まった。
テープを早回しするような導入。
そこにベースが響き、トランペットがメロディを奏でる。
瑞樹の身体が、自然に演奏とシンクロする。
ひとりじゃない。
歌が澄みわたる。会場の奥の、奥まで。
サイリウムのやさしい光が瑞樹をきらめかせる。
その髪を、瞳を。ほのかにあかくなった頰も、詞をつむぐ唇も。
観客達は、心を奪われた。川島瑞樹というアイドルに。
瑞樹も、夢中になった。
もっと。もっと。
歌声が、ステージを中心に広がっていく。
レッスンよりも、ずっと綺麗なかたちで。
ステップもかろやかに、なめらかに、スケートリンクを滑るように。
自分でもおどろいてしまうくらい、身体がよく動く。
恋してる。このステージにある、すべてに。
瑞樹はキスを投げた。パフォーマンスではない。
観客席から、言葉にならない声が上がった。
もうひとりの私に Good Bye……
明日だってうまくいくから、Good Night……
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川島瑞樹の“最後の”コンサートが、日本中の話題をさらった。
皆が、コンサートを境に瑞樹がアイドルをやめると思っていた。
だが、実際瑞樹がやめたのは、アナウンサーのほうだった。
「もっとはやくアイドルになればよかったわ」
久しぶりのオフに、瑞樹はプロデューサーと食事をしていた。
アナウンサーへの未練はない。
「もっと、そうね。17歳とかそれくらいのときに、アイドルになるべきだったわ。
そしたら今頃P君を、シンデレラガールのプロデューサーにしてあげられたかも」
瑞樹は半分冗談めかして言った。半分は本気だった。
プロデューサーはふっと表情をゆるめて、言った。
「無駄なんかじゃありませんよ」
「え?」
「瑞樹さんの28年も、アナウンサーのお仕事も、つながってます。
いまの瑞樹さんに」
そうだと嬉しいわ。
呟いただろうか、心の中で思っただろうか。
それを確かめてくれるひとは、ここにいる。
おしまい