1 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:31:45.43 6jKTh3xi0 1/34


その日の空は、少し曇っていました。

傘を学校へ持っていかなかった私は、授業を終え、雨が降らないことを祈りながら事務所へ向かいます。
電車の乗り換えを済ませ、駅を出た時には今にも雨が降りそうで。
結局、事務所まであと数十メートルといったところで、手の甲に、冷たい雫が触れる感覚を認めることになってしまいました。
急いで事務所に駆け込み、玄関ホールで息を整えます。



元スレ
【モバマスSS】うつしみアリス
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1497447105/

2 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:32:08.89 6jKTh3xi0 2/34


(あまり濡れてないですし……まぁ、ラッキーだったかもしれません)

服やカバンについた水滴を手で払い、ふぅと息を吐いたところで、気がつきました。
玄関ホールの端、昨日までは何もなかったはずの場所に、数人が。自分とほとんど変わらぬ歳の、恐らく向こうも学校を終えて事務所へ来たのだろうな、と思わせる数人が、何かを囲っていました。

「おはようございます。どうかしたんですか?」

「あ! ありすちゃん! おはようございまー!」

"待ってました"と言わんばかりの返事を返してくれたのは薫さんです。別に、彼女が溌剌としていることは実に普段どおりなのですが、見れば、薫さん以外もそんな表情を浮かべていたのです。

「ありすちゃん! これこれ! 見て!」

「は、はぁ……」

千佳さんに促され、視線を皆さんの中心に移すと。

「……人形?」

そこにあったのは、一体の人形。

手で持つには妙に大きく、かといって床に置いてしまっては気づかずに蹴飛ばされてしまいそうな、そんな大きさの西洋人形が置いてありました。


3 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:33:33.69 6jKTh3xi0 3/34


私たちの身長の半分くらいでしょうか。その顔の、体の、妙なリアリティに、少し、胸騒ぎを感じながら。

「これは……?」

「……ちひろさんが……友達からもらったって……」

困惑する私のつぶやきに応えてくれた雪美さんは、まだ何か言いたげにこちらを見つめています。

「そう……なんですか。それにしても、なんと言うか……だいぶ年季が入っているというか……」

正直、"ボロいな"と感じていたのですが、他のアイドルもいる手前、一応オブラートには包んで。

「そんなこと言っちゃダメ! "あんてぃーく"って言うんだよ!」

「……誰が言ってたんですか?」

「あいお姉ちゃん!」

恐らく意味はあんまりわかっていないんでしょうね。と思いながらもう一度人形を見ると、その服はどこかで見覚えがあるような。

「……これ……ありす……」

「……どういう意味ですか」

思いの外、語気が強い気もしましたが。それに応えたのは千佳さんでした。

「違うよー! ありすちゃんじゃなくて、アリスなんだよ! 不思議の国の!」


4 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:34:11.20 6jKTh3xi0 4/34


……ああ、なるほど、最初に感じた嫌なモノの正体はそれだったんだ。

状態の悪さ故にすぐには気がつきませんでしたが、この服はまさに。
自分がかねてより嫌いだった、大嫌いだった、おとぎ話の中の女の子。
アイドルになって、ちょっとは馴れたつもりでも、やっぱりこの名前は好きになれなくて。
この人形が"それ"だとわかった途端に、なんだか酷く、互いに敵意を向けているかのような、そんな感情が湧き上がってきてしまいました。

「……下らないですね。どうせ捨てられるだけの人形でしょう」

どこか言い訳するように吐き捨てた私は、困惑した表情を浮かべる皆さんを尻目に、その場を去ろうとします。
少し、空気を悪くしてしまったであろうことを、心の中で謝りながら。
そのまま立ち去ろうと人形から目を切った刹那。

「……あっ……!」

雪美さんが、普段より少し大きな、ちょっと驚いた声を出しました。
……その声の向きは、私……ではなく、人形。

「あっ……耳が……」

薫さんは逆に、いつもより小さな、ちょっとだけ怖いというニュアンスも含んだ声。
再度人形に目を向けると。

「耳が……取れてる……?」


5 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:34:51.80 6jKTh3xi0 5/34


~~~~~

(こんな気分でレコーディングをしなければいけないとは……)

結局あの後、ちひろさんに処理を任せて、この日唯一の仕事であるレコーディング現場へ向かいました。
正直、気分は最悪です。自分が壊したわけではないにしろ、その場にいたことは事実。
というか、誰も触ってないのにどうして壊れてしまったのでしょうか……?
忘れよう忘れよう。と思っても、あの人形の表情は、私の中にこびり付いて離れてくれません。


6 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:35:42.68 6jKTh3xi0 6/34


「どーもー、お願いしまーす……って、あれ? ありすちゃん、顔こわいよー?」

「本当ですね……。何か……気分が優れないなどでしたら、無理はしない方が……」

そう言いながらスタジオに入ってきた周子さんと文香さんの声で、なんとか気持ちを切り替えます。

「い、いえ、問題ありません。よろしくお願いします」

お2人は多少、訝しむような表情を浮かべていましたが、すぐに普段のそれに戻りました。
"深く聞かないでほしい"というこちらの意を汲んでくれたのかもしれませんが、そこを気にしてもどうにもなりませんから。

他のユニットメンバーである飛鳥さんと奏さんは別録りで、既に終わっているようです。ウォーミングアップを終えて、1番手の周子さんが、レコーディング室に入りました。
周子さんがスタッフさんにいくつか確認を取っている間に、デモ音源を聴いて集中力を高めて。
私はプロです。何があっても、お仕事には全力で取り組まなくては。


7 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:36:28.11 6jKTh3xi0 7/34


収録を終えた周子さんと入れ違いに、レコーディング室へ足を踏み入れます。
スタッフさんとの会話は1つ2つ。ヘッドホンを装着し、前を向くと、周子さんのために上がっていたマイクが、私のために下がってきてくれます。

「お願いします」

そう告げた。瞬間。


ガン!!!!!


まるで頭を誰かに殴られたかのような衝撃が私を貫きました。


8 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:37:10.64 6jKTh3xi0 8/34


反射的にヘッドホンを外し、床にうずくまります。何が起きたのか理解するためには、頭が全く回ってくれなくて。

「うぅ……」

「ありすちゃん!!!」

真っ先に駆けつけた周子さんが、優しく私を支えてくれます。

「ありすちゃん……!」

文香さんの声も聞こえます。それはそれは心配そうな声色で。

ヘッドホンは外したはずなのに、まだ私の頭の中には収録するはずだった曲が流れていて……。

……あれ?

違う。この音楽は、私の頭に流れているわけじゃなくて……。


9 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:37:44.13 6jKTh3xi0 9/34


まだ多少、朦朧とした意識で、音の出所を探ると、手に持ったヘッドホンへ辿り着きました。
本来なら耳に当てないと聞こえないはずの音が。こんなに離れた場所からは届くはずのない音が。
その部屋にいる全員の耳へ運ばれていました。

さながらそのヘッドホンはスピーカーのよう。
あれを耳に当てるなんて、考えただけで頭痛が止まりません。


10 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:38:13.29 6jKTh3xi0 10/34


「ちょっと! なんであんなに上がってるん!? 危ないでしょ!?」

周子さんがスタッフに詰めよりますが、当のスタッフも当惑した表情を隠せない様子です。
それもそうでしょう。人によって差はあるものの、1人目が収録した時の音量をリセットするなんて非効率的です。
しかも、下げるならまだしも上げるだなんて。

結局原因はわからずじまい。私と文香さんの収録は後日となり、その日は家に帰ることになりました。
事務所から出るとき、あの人形は見ないようにして。


11 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:39:11.81 6jKTh3xi0 11/34


~~~~~

翌日。気を取り直して……というわけではありませんが、なるべく昨日のことは気にしないように、事務所へ入りました。
すると、人形の前に1つ、人影が。

髪型とその色で、それがフレデリカさんだということはすぐにわかりました。


12 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:39:58.72 6jKTh3xi0 12/34


普段なら一声、挨拶を掛けてから、通り過ぎて奥へと向かうところではあるのですが、今日、それは2つの理由によってできませんでした。
1つ目、この後のお仕事がフレデリカさんと一緒であるということ。
いくら人形の傍にいたくないからといって、ここでフレデリカさんと会話をしないのはあまりにも不自然です。
そして2つ目、これがどちらかといえば大きな理由なのですが。
……人形を見つめるフレデリカさんの目が、表情が、今までにないくらいに真剣で、思わず息を呑むほどだったからです。

私の気配を察したのか、フレデリカさんが振り返ります。その表情はまだ硬いもので、私はなかなか声が出せませんでしたが、それも一瞬だけ。
私の姿を視界に認めたであろうフレデリカさんは、すぐにいつもの笑顔に戻って、声を掛けてきました。

「わお! ありすちゃん! ぼんじゅー♪」

先ほどの表情なんて、まるで幻だったように。

……もちろん、幻ではなかったからこそ、いつもよりは下がったトーンで、私は、網膜に焼きついた、人形を真剣に見つめるフレデリカさんに返答を返します。

「何を……見ていたんですか」

「え? ……んーとね」

一瞬だけ、フレデリカさんは迷いの表情を浮かべ、どこか観念したかのように、口を開きました。

「この娘の目ってさ」

「目……?」

「……こんな色だったっけ?」

「……え?」


13 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:40:39.86 6jKTh3xi0 13/34


フレデリカさんが言った"この娘"が誰を指しているのかなんて、考えるまでもありません。
"見たくない"という恐怖心は、少しの怖いもの見たさという好奇心と、"確かめなければ"という表現しがたい義務感によって敗れ去りました。
返事をしながら人形の、その目に視線を移すと、その色は。

燃えるような。


――赤色でした。


14 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:41:17.93 6jKTh3xi0 14/34


~~~~~

「フンフンフフーン♪」

隣を歩くフレデリカさんは、どこかわざとらしく、鼻歌を響かせています。
せっかく着けた変装用の帽子もメガネも、その鼻歌とはみ出た金の髪のせいで、無用の長物と化していました。
道行く誰もが見つめ、振り返る。
"黙っていれば"なんてよく形容されますが、裏を返せば、ヴィジュアルに関しては文句の付けようがないということでしょう。
時折こちらに声をかけ、そうかと思えばブランドショップの外に並ぶアイテムを大げさに褒めて。それでも歩幅はこちらに合わせて。

この日の現場は事務所から歩ける範囲にあるスタジオでした。
……だからこそ、フレデリカさんと私は、最近はなんだか曇っている街を闊歩しているのですが。


15 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:41:46.85 6jKTh3xi0 15/34


「あれー? あのスタジオ、どっちだっけ?」

「そこを左です。……フレデリカさん、私よりも行ってる回数多いですよね?」

「そっか……真っ直ぐだったらおいしいたこ焼き屋さんがあったのにな~」

「仮にそうでも、撮影前にたこ焼きなんて言語道断です」

「冗談だよ~?」

そんな会話をしながら、進行方向を左に切り替えます。
その直後。

(わっ……!)

曲がり角の先は死角なのですから、視界が開けるまではそこに何が存在しているのかわかりません。
私がそこを曲がったとき、目の前に現れたのは、長身の人影でした。

(ぶつかる……!)

咄嗟に私は、避けようと体を横に動かします。
なんとか正面衝突は避けられそう……と思ったのも束の間。
最初、その人は手に何も持たずに歩いているのだと思いました。
重そうなバッグも、大きいリュックも、軽そうなポーチだって、その人は身に着けていなかったのですから。
腕が軽く当たってしまうことくらいは、仕方がないのかな。なんてことも考えながら。

しかし、その一瞬の間に。当たるまでの一呼吸の間に、私の鼻腔に届いたのは、その"匂い"。
そして、私の目が、真っ直ぐに向き、その人の持っているモノを捉えたのは、ほぼ同時でした。


16 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:42:28.49 6jKTh3xi0 16/34


煙草だ。


ふと浮かんだのは、「煙草を持つ手は、子供の顔の高さだ」なんてどこかのポスターの言葉。
かろうじて相手の体を、すんでのところで避けたばかりの私には、そこから体を動かす余裕なんてなくて。
眼孔にみるみる迫る赤い光が視界にはあって、頭ばかりがのんきに動いていて。
一瞬、世界がスローモーションになった感覚すら覚えました。

声が出ない。目も瞑れない。
克明に浮かんでしまう結末が、脳にへばりついて離れなくて。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。

――嫌

「ありすちゃん! 見て見てあのネックレス! ちょーかわいいと思わない!?」

そのトーンとは不釣合いな程の力強さで、硬直していた私の体が引っ張られました。

さっきまで私の顔が置かれていた場所を通り過ぎる赤色。
乱れた息と煙草の匂いの組み合わせは、私を咳き込む寸前まで追い込んで。
うるさく騒ぐ心臓は、私の全身から噴き出す汗を助長しているかのようです。


17 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:43:08.09 6jKTh3xi0 17/34


「ってうわ! 高い! ナニコレ!?」

そんな私を正気に戻してくれた声は、いつもの調子で、言葉を放り投げています。

「……」

「……? どーかした?」

「手……、離してもらっても……いいですか……?」

「あっ! ごめんごめん~」


18 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:44:03.76 6jKTh3xi0 18/34


パッと手が離れた時には、フレデリカさんはもう、前を向いていました。

その後の撮影のことなんて覚えていません。
指示なんて全然聞こえませんでした。足どりも表情も、きっと困らせるくらいに重くて。
話すお仕事でなかったことが不幸中の幸いでしょうか。
恐らくフレデリカさんもフォローしてくれたのだと思います。

やっとの思いで家に辿り着くと、私はいつの間にか、眠っていました


19 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:44:32.75 6jKTh3xi0 19/34


~~~~~

事務所へ向かう足がどんどん鈍いものになっているという自覚はあります。
思わず立ち止まってしまうことがあります。
そういう時に限って、なんだか事務所が近くに感じられてしまうのはどういう現象なのでしょうか。

今日は、あの人形の前に、誰もいませんでした。
昨日までならきっと、私はこんなものには目もくれず、足早に通り過ぎることだったでしょう。
そう思いながら、一歩、また一歩と、人形に近寄ります。


20 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:45:15.66 6jKTh3xi0 20/34


取れた耳。

赤く染まった目。

そして。


潰れた、指先。


血の気が引いた理由は、その惨たらしさに対する単純な拒絶と。
その日に与えられていた仕事。


21 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:45:45.84 6jKTh3xi0 21/34


「さてさて~! こっちから順に、親指~、人差し指~、中指~、薬指~、小指!」

「1つ1つは無臭なんだけど、全部に塗ったらそれはそれはハッピーで、思わずトリップしちゃう香りに!」

「これが志希ちゃんプロデュースのマニキュアなのだ!」

事務所のメイクルームで、志希さんがメイクさんに説明をしています。

この日の取材は、事務所の中。
前述のマニキュアを塗って、取材を受けることになっていました。
活き活きと説明を続ける志希さんとは対照的に、私の視界はなんだか曖昧で。
目の前で説明を終えた志希さんの指が、あれよあれよとマニキュアに染まるのを眺めていました。
器用なメイクさんのおかげで完璧に塗られた爪を見て、志希さんは満悦の表情を浮かべています。


22 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:46:32.69 6jKTh3xi0 22/34


「次は橘さん、どうぞ」

「……」

「……橘さん?」

何度目かのメイクさんの声で、私はようやく表情をそちらへ向けることができました。

緩慢な動きで椅子に座り、手を。
震えている手を。
ゆっくりと置いて、メイクさんは、志希さんに塗ったものとは違う5種類を取り出しました。


23 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:47:23.89 6jKTh3xi0 23/34


まずは、親指用のマニキュア。
封を開けて、さて塗ろうかという、その時に。

「待って」

今の今まで、自分の爪を笑顔で眺めていたはずの志希さんが、片手で私の指を隠し、もう片手で、メイクさんからマニキュアを奪い取りました。

「コレ、アタシが渡したやつじゃないでしょ」

聞き慣れないほどに冷酷な志希さんの声。少し匂いを嗅ぎ、続く。

「……こんなもの人体に塗ったら」

でも、今の私には、その言葉を最後まで聞くことはできなくて。

「……っ!」

気がつくと私は、部屋を飛び出していました。


24 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:47:56.92 6jKTh3xi0 24/34


まただ。まただ。まただ。

偶然じゃない。偶然じゃない。偶然じゃない。

重い足どりで、やっとの思いで玄関ホールに辿り着き、事務所から出ようとするのですが、やはり人形の前には人がいて。

「お! ありすちゃんじゃん! ちょっと見てよこの人形~、この人形ってこんなに」

その話している人物が友紀さんであるということすら、私はすぐにはわからなくて。
その次の言葉だって。


「腕にいっぱい傷なんてあったっけ?」


「ま、どうでもいっか! どう? ヒマなら野球しない?」

背筋なんて、とっくに凍っていて。

「あ! ずりーぞ友紀! ありす、サッカーやろうぜ?」

耳なんて、ほとんど機能していなくて。

いつの間にか、逃げていました。

逃げ出して……いました。


25 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:48:37.69 6jKTh3xi0 25/34


(早く、早く、逃げなきゃ、逃げなきゃ!)

何から逃げているのかなんてわかりません。
安全な場所があるのかなんてわかりません。

それでも、何かが私の後ろから迫ってくるような感覚から逃れるために。

走って、走って、走って。
立ちはだかる横断歩道の赤信号が、永遠に続くように永い時間にも思えて。
信号が青色の光をを灯すや否や、またすぐに走り出していました。
青信号は「進め」の合図だから。

脇目も振らず。
真っ直ぐに前を見て。

だから、気がつきませんでした。

そこに。

静止の効かない、一台の車が迫っているだなんて。


26 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:49:31.37 6jKTh3xi0 26/34


周囲から聞こえる悲鳴。

視界の隅に、ほんの端っこに、その物体が、今にもぶつかりそうな。
今度は頭も働きません。避けるとか、そんなことも考えられず。頭の中にはモヤばかり。

また、スローモーション。

それを断ち切る。

声。

「危なぁぁい!!!!」


27 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:50:10.11 6jKTh3xi0 27/34


ガッッッ!!!

大きな後ろからの衝撃が、私の体を前に押しました。
地面を何度か転がるように、視界が回ります。でも、なぜか痛みは少なくて。
それは、誰かに、"私に衝撃を与えた誰か"に抱きかかえられているからだと、気がつくためには、少しの時間が必要でした。

「大丈夫ですか!!! ありすちゃん!!!」

「茜……さん」

心配を声に乗せて、でも不安を与えないように大きな声で、茜さんは私を見つめています。

「あ、ありすちゃん! う、腕から血が! す、すみません! 危ないって思って! つい思いっきり……!」

その流れる血を見て。傷がついた腕を見て。私の胸騒ぎは、もう自分でどうにかできるものではなくて。

私は、茜さんにお礼すら言わずに、事務所の方へ、走り出していました。


28 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:50:49.13 6jKTh3xi0 28/34


思えば、よくもまあ体力が続くものです。ここまで一心不乱に走ってきたのに、今度は逆戻り。
でも、そんなことは頭の片隅にもありませんでした。

どうにかしなきゃ、どうにかしなきゃ!
あの人形を、どうにかしなきゃ。
あれが事務所に来てからおかしくなったんだ。

早くどかさなきゃ。どこか、どこか自分の目の届かないところまで。

早く!

早く!


29 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:51:26.69 6jKTh3xi0 29/34


どれくらい走ったろう?
行きより長かったのか、短かったのか。
いやもちろん、同じ長さであることは間違いないのに。

事務所までどうにか辿り着き、乱暴にドアを開けます。

そして、あの忌まわしき人形の……ところ……に……。

「あれ……?」

その人形は。


「ない……?」


忽然と姿を消していました。


30 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:51:58.84 6jKTh3xi0 30/34


肩で息をしつつ、周囲を見渡します。
人形があったところには何もなくて、なぜか周りには誰もいなくて。
そんな、漠然とした不安感は、ある女性の声で塗り替えられました。

「あら? ありすちゃん?」

「……ちひろさん」

「って、どうしたんですかその格好! 汚れて……あ! 血が出てますよ! 大変!」

「人形は」

「……え?」

「人形はどこに行ったんですか」

「人形って……ああ、ここにあったアリスの人形ですか?」

「どこに行ったんですか!」

「あ、ありす……ちゃん?」

普段とは違う雰囲気を感じ取ったのでしょう、ちひろさんが真剣な目になります。


31 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:52:31.93 6jKTh3xi0 31/34


「あれは、もらった人に返しちゃいました」

「え……?」

「もうボロボロだったものですから……」

今、この人は、何と言った?

私の、なかなか機能しない耳に届いた内容をなんとか理解すると。
つまり。

「じ、じゃあ、もうこの事務所には……」

「ありませんよ? ついさっき、持ってっちゃいましたから」

「そう……なんですか」


32 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:53:10.97 6jKTh3xi0 32/34


漏れ出たのは、安堵の声。
悪夢から覚めた、そんな気持ちの。

もう大丈夫だ。そう考えると、少しずつ頭が回ってくる。

「ありすちゃん、あの人形が気になるんですか?」

「いえ、もう、いいです」

もう、これ以上はあの人形について考えたくありません。

「あら? そうですか」

「まったく……これに懲りたら、変なモノなんて置かないことです」

「う……、耳が痛いです……」

「撤去にだって手間がかかったでしょう」

「そうですね……、でも、びっくりしちゃいました」


「まさか、こんなに早く」



33 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:53:44.12 6jKTh3xi0 33/34




「頭まで取れちゃうなんて」




34 : ◆i/Ay6sgovU - 2017/06/14 22:54:16.37 6jKTh3xi0 34/34






おわり







普段はコメディ書いてます


過去作


橘ありす「ジャパネットフレデリカ?」
http://ayame2nd.blog.jp/archives/15947207.html

双葉杏「プロデューサーの口調が闇遊戯みたいになった?」P「そのようだぜ!」ドン☆
http://ayame2nd.blog.jp/archives/16014842.html

佐城雪美「世のため人のため晶葉のため……」
http://ayame2nd.blog.jp/archives/16330492.html


などもよろしくお願いします




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